粋を楽しむ。
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東京二八そば探訪【其の二十五】
蕎麦の流儀を大切に、 無類の蕎麦っ食いのお店。
【北区 上中里】浅野屋
k.j
京浜東北線「上中里」駅を出て、徒歩3分。駅近なのに静かで、のんびりした空気が流れる。住みやすそうな街だなと思いながら、路地に建つ「浅野屋」さんの前に到着。「東京二八蕎麦」の白い旗と、入り口にかかる青赤二色の暖簾が目印です。
店内は、どっしりしたテーブルのカウンター6席、二人掛けのテーブル1つ、四人掛けのテーブル2つ。こじんまりと落ち着く配置です。テーブルにいた年配の男女お二人は、蕎麦湯をすすりながら、「スマホをどこで買うか」をじっくり相談中。カウンターのおひとりさまは、黙々とランチの天せいろを食べているところ。
私も「天せいろ」にしようかな。ランチの天せいろと通常の天せいろがありますが、お値段の違いはエビの大きさだそう。壁に貼ってあった「豚バラ生姜そば」にも心惹かれましたが、ここは太っ腹に、大きいエビ天がつく通常の天せいろを注文。
創業1958年。現在の店主、小澤勝裕さんのお父さんが、新潟から東京に来て、お蕎麦屋さんをやっていた親戚を頼った後、独立して開業しました。いわゆる「街のお蕎麦屋さん」でした。勝裕さんもここで生まれ成人。「洗い物の手伝いくらいはしたことあるけど、9歳年上の姉が店を手伝っていたこともあり、自分が蕎麦屋をやるとはまったく考えず、ぷらぷらしてた」という勝裕さんが21歳の時、お父さんが倒れてしまいます。そのため、店で働き始め、同時に、銀座にある十割蕎麦の店の深夜営業を手伝って蕎麦修行。すごい! 朝から夜まで実家で働き、続けて夜9時から夜中まで銀座で働く。いつ寝ていたのですか!? 「若かったから、あまり疲れは感じなかった。もちろん寝不足でしたけど。でも銀座のお店は面白かったので、勉強になったし、楽しかった」。その店での経験が、後のお店作りにも影響を与えます。
東日本大震災の後、建物のあちこちが傷んでいることに気づきます。「雨漏りもあって、どうしようかと。店をやめるなら今だよ、とまで言われました。でも、お金が借りられるなら借りて、店を直し、自分が売りたいものを売る店にしようと決めました」。
2011年に店を改装。明るい茶系の壁や、広いカウンターテーブル、気に入った照明など、内装にも積極的に意見を言い、当時としては「蕎麦屋らしくない」店が完成。出前をやめて、メニューを刷新し、蕎麦は二八にしました。つゆは、辛汁は本節でキリッと、甘汁は鯖節だけを使って甘みを引き出すなど、自分が良いと思い「売りたいもの」を売る店をデザインしました。
再オープンを12月29日と決めたところ、ご近所の方に、「29日は、『ふたり苦労する』になるから、28日にしたほうがいい」と言われ、12月28日オープンにしたというエピソードは、お父さんの代からお店を見守ってきたご近所のあったかさを感じます。
天せいろ、きました。運んできた女将さんが、「つゆは、少しずつ入れてつけてくださいね」と伝えてくれました。お蕎麦をつゆにじゃぶじゃぶつけないでほしい、ということ。ちょうどカウンターに座っていた常連の若い男性が、お蕎麦をつゆにちょっとつけ、瞬時に勢いよくたぐる音が聞こえてきて、あれこそまさに教科書通りの蕎麦の食べ方、と手本にしたいようでした。
「蕎麦打ち教室をやってほしいと言われることがあるけど、それより、蕎麦をおいしく食べて蕎麦屋で元をとる、蕎麦食いの流儀を教える会の方がやりたい」と、食べ方には一家言ある勝裕さんですが、基本的には、「蕎麦はみんな好き。立ち食い蕎麦も食べますよ。あったかい蕎麦も冷たい蕎麦も、結局、どんな蕎麦も愛してる。蕎麦っ食いですね」と言います。
音楽や釣りにも熱中し、バンドでドラムを担当。キューバの打楽器「カホン」を演奏したりもします。そして、ブラックバス釣りは40年のキャリアとか。「でも考えてみると、音楽も釣りも中途半端かな、って。一生の仕事としてやっていくのは、やっぱり家業の蕎麦だと思っています」
最後に、「うちで使っているネギ。立派でしょう?」と見せてくれた「千住ネギ」の写真を撮らせてもらっていたら、「これも見て」と持ってきてくれたのが、お蕎麦を茹でるときに使う「茹で箸」。長いのが新しいもので、短いのが、お父さんの代から使っているもの。短い方も、元は同じくらいの長さがあったそうで、使い込むとここまでになるのだと驚きました。長さが減った分に込められた、お店の歴史、長い年月の一日一日、家族の思い、たくさんの出会いなどを思いながら、再訪を約束してお店を後にしました。