粋を楽しむ。
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東京二八そば探訪【其の十六】
伝統継承とオリジナリティ追求で 不動のレギュラーを目指す
【大田区 大岡山】志波田
k.j
東急「大岡山駅」北口を出て、北口商店街の途中で左折。駅から徒歩5分ほどの便利な立地にあるお店が、「志波田」さん。静かな路地に建つ黒を基調としたお店の近くまで来ると、年配の男性がひとり、慣れた仕草でひょいとのれんをくぐるのが見えました。私もあとに続きます。涼しげなデザインの麻のれんをくぐると、落ち着いた色調の調度を暖かな照明が照らすシックな店内が広がりました。お蕎麦屋さんというより、静かにグラスを傾けたくなる老舗バーの趣です。
店主の鈴木達夫さんとフロアで迎えてくれた女将の啓子さんも、ダンディーなバーのマスターと粋なマダムといった雰囲気。「(お蕎麦屋さんがよく厨房で着る)白衣なんか着たことないな」と笑う達夫さんは、淡いベージュトーンのシャツとベスト、啓子さんはゆったりした黒いワンピースの胸もとに鮮やかな赤いモチーフのネックレスをして。とにかくふたりともおしゃれ。
バーのような雰囲気とはいえ、メニューはもちろんお蕎麦屋さん。定番メニューのほか、手書きの別紙に季節のおすすめもいろいろあって迷いましたが、ここはあえてオーソドックスに「天ざる」を頼むことにしました。
新潟県新発田出身のお父さんが東京に出て来て創業。達夫さんは、中学高校大学とバレーボールに熱中し、大学卒業後は実業団チームに入ることがほぼ決まっていたところを、お父さんに「呼び戻され」、お蕎麦屋さんに。「父親の言うことは絶対ですから。そういう時代でしたよ」と、ニコニコ笑う達夫さん。蕎麦屋をやると決めてからは、別の店で修行して技術を身につけ、しっかりとお店を継いだというわけです。
「天ざる」きました。朱塗りの丸い器がめずらしくて楽しい。蕎麦の色と海苔の黒と朱色の組み合わせの粋を感じます。さっくりした衣に包まれた揚げたての天ぷらと、喉越しの良い二八蕎麦。やはり天ざるは王道。器にたっぷり入った甘めのつゆは、天ぷらにも蕎麦にも合う深い味わい。蕎麦湯を飲むために新しい器がくるのも嬉しい。
こういうお店の雰囲気だと、きっと夜も良いはず、と夜メニューを見せていただくと、これはこれはと唸るメニユーが並んでいました。「アボカドとまぐろのサラダ仕立て」「めひかり焼き」「しめさば」。そして、おやっと思うメニューも。「トマトとアンチョビのチーズ焼き」「いぶりがっこのマスカルポーネ」「海老とホタテのバジルソース」。楽しくて、わくわくしてきます。「おいしい二八蕎麦をイタリアンふうに食べるのもいいと思うんです。ワインにも合いますよ」と達夫さん。
こんな素敵な夜メニューを知ったあとで改めて店内を見渡すと、細部まで行き届いたセンスに心魅かれます。何度か改装したり手を入れたりしたという店のすみずみに、女将の啓子さんの美的センスが生きています。「僕が得意なのはバレーボールと蕎麦だけだから。こういうセンスは彼女のほうがあるので、全部まかせています」と達夫さん。啓子さんが、カウンターの大きな花器に季節の花を生け、壁に飾る雰囲気に合った絵を折々に自ら描き、流麗な字でメニューを書きあげ、店ののれんを季節にふさわしいものに替え、すべての器や調度にも心を配っています。お店のBGMも啓子さんセレクトで、昼はボサノヴァ、夜はジャズ。「どうせやるなら、オリジナルなことがやりたいですから。でも、楽しんでやっているんですよ」と啓子さん。
お客さんのマイボトルが並ぶ棚には、常連さんの「マイ箸」も並んでいて、啓子さんが作ったきれいな箸袋も。これは常連さんたちも嬉しいはず。
オリジナリティ豊かなお店ですが、新しさを追求するだけでなく、初代から継承したものを守っているというところも特筆すべき点。たとえば「出前」。昔はお蕎麦屋さんの仕事の中心だった出前ですが、今ではやらなくなったお店も多い中、志波田さんではずっと続けています。「古くからのお客さんが高齢になって、なかなか外に気軽に出られなくなったりして、出前をという方も多いですから」と。そして、お父さんが考案したメニュー「冷やし五目中華そば」も続けています。お蕎麦じゃないメニューはこれだけですが、このメニューのための自家製中華麺と自家製だれを使っており、根強いファンがいるそうです。
バレーボールの選手だった頃に常に目指していたように、「蕎麦屋のレギュラーになりたいですね」と話す達夫さん。その基本にあるのは、新しさとオリジナリティの追求、と同時に伝統の継承。そしてそれらはすべて「お客さんのため」。「お客さんが求めることなら、やらなきゃならない。これからも、伝統を守りつつ、新しい風を吹かせていきたいと思っています」