粋を楽しむ。

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東京二八そば探訪【其の三】
江戸の蕎麦文化を守りながら、 伝統とともに新しい未来へ。

[淡路町]かんだやぶそば
K.June

 JRお茶の水駅、秋葉原駅、神田駅、メトロの小川町駅、淡路町駅、どの駅からも徒歩5分以内。ビルが林立する界隈にあって、そこだけ時が止まったような雰囲気のある建物は、緑に囲まれて涼しげ。今年で創業140年になる「かんだやぶそば」です。

 昼時を過ぎた時間でもほぼ満席の店内で、真ん中の席に案内され、嬉しくなりました。蕎麦屋のお客さんの人間観察は、短編小説を読むような楽しさがあります。
 まずは鴨せいろうを注文して、あたりをそっと見渡します。お隣は、お酒と蕎麦前を楽しむ男性。
向こう側でお蕎麦をすすっている女性ふたりは和やかな様子で笑顔がとても優しく、斜め前のご夫婦は、ゆっくり蕎麦湯を堪能中で、満たされた様子が見てとれます。
 注文をとってまわる女性たちのきびきびとした姿。帳場の女将さんの「せいろぅ~いちまい~」「あなごぉ~にまい~」という独特の「通しことば」の声音も耳に心地よく。
 ああ、この雰囲気。これぞ、江戸の、東京の、蕎麦屋、です。

 「かんだやぶそば」は1880年(明治13年)創業で、入口に銅像がある堀田七兵衛氏が初代です。
 堀田七兵衛氏が「藪蕎麦」の屋号を譲り受けた「駒込団子坂藪蕎麦」(蔦屋)は、さらに半世紀さかのぼる歴史があり、徳川11代将軍家斉の時代、1833年(天保4年)に創業した店です。
 いわば「かんだやぶそば」のルーツと言える江戸時代のこの店は、画期的なコンセプトの店だったようで、「当時のビジネスモデルだったのでは」と、現在の「かんだやぶそば」四代目、堀田康彦さんは言います。当時の一般的な蕎麦屋は、屋台や小体な店。

 簡素で安価な庶民のファストフードというポジションでした。それを、武士だった創業者が、広大な武家屋敷を店舗にして始めたとのこと。
 「蕎麦の値段も2倍から3倍。それまで蕎麦屋に行ったことがなかったような上層階級の人が来る店にしたのです。武家屋敷の造りを生かして、庭や土蔵や母屋や離れもそのまま。
 お風呂もあって、お風呂に入ってからゆっくり座敷で蕎麦を食べる。一日中楽しめる遊園地みたいな蕎麦屋だったのではないかと思います」。
 江戸時代も後期になると、幕府は衰退に向かいつつあり、武家社会は力を弱めて、武家屋敷の維持なども難しくなっていたであろう時代だからこその、発想の転換。
 どんな賑わいだったのだろうと想像するとわくわくします。

 鴨せいろうがきました。こちらの蕎麦は、「二八」ではなく、業界用語で「外一(そといち)」と呼ぶ、蕎麦粉十割、小麦粉一割というもの。
 十割蕎麦とも違うし、蕎麦粉が九割ともまた違うのですが、素人としてはそこはつきつめず、ただただ蕎麦の味を楽しもうと思います。
 ほんのり青みをおびた蕎麦は、細く、なめらかで、甘やか。辛めの鴨汁に少し浸してすすると、蕎麦の甘やかさにキリッとしたインパクトが加わって、おいしい。
 「つなぎの割合はもちろん、蕎麦粉の挽き方でも味が変わるわけですけど、どれも、優劣ということではなく、お好みですよ」と、堀田さん。近くのテーブルから、「はぁ、おいしかったねー」という声が聞こえました。

 「東京の蕎麦文化は、簡単でスピーディという点が江戸っ子の気質にも合って発展してきました。この伝統ある食文化としての蕎麦というものは、これからもなくならないと思っていますが、ここから見える社会は変化しました。
 昔は、スーツを着て黒塗りの車で部下を引き連れて来るような、会社人間の男性達が多かったのですが、今は、家族連れであったり、女性一人も多いし、仕事をリタイアした年配の方も多い」  

 江戸の庶民のファストフードから上層階級に客層を広げたルーツの先に、さらに多様性を広げる今があったわけです。

 武家屋敷を使った江戸時代の「駒込団子坂薮蕎麦」に興味を魅かれた方は、入口を入った左側の壁に、資料をもとに描かれた当時の様子の絵が飾られているのでぜひ見てください。
 その隣には、大正、昭和の面影残る「神田連雀町薮蕎麦」の絵。そして、新しくなった現在の店の絵。一級建築士の木下栄三さんが描いた3枚の絵を見比べられます。

 現在の建物は、2014年に新築したもの。それまでの重厚感ある板塀に替わり、石垣と竹垣に緑をたっぷり添えた、風通しの良い外観が魅力的です。

 さて最後に、せいろうそばもう一枚いただいてから帰ることにします。

かんだやぶそば
千代田区神田淡路町2-10 03-3251-0287
11時30分~20時
定休日・水曜日